SQUAD_TAKUYAのアレコレ

トライアスロン&ジュニアランニングスクールの「SQUADTAKUYA」で巻き起こるアレコレをご覧ください!

柴田コーチが...

STピーンチ(・∀・)

柴田コーチが緊急入院になってしまいました。。

水曜ローラー練や土曜練習会などご迷惑おかけしてしまい申し訳ございません。。

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なんと手首がパンパンに腫れてしまいまして...
手首がなーい(*´Д`*)

どうやら20年前の現役プロ生活中に起きた事故の名残で...眠ってた菌が...みたいです。。

しばらく練習会でコーチングはできませんがメニュー会員様にはしっかりメニューはお届けします!

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病室でこんな人初めて見ました(≧∀≦)

来週には退院できる予定ですのでしばしお待ちください!!

 

で〜そんな柴田コーチ

病室で想いに耽っていたところ〜こんな作文が出来あがりました!

お時間ある方はご覧ください!

Facebookからの引用です

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今回皆様にご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません。

今回この様な事になってしまった事を、昔事故で手が動かなくなってしまった事を知らない生徒さんもいると思うので、これを気に書かせて頂きます。

時間があるので昔の事を細かく書きますが、文章は下手なのでグチャグチャですので宜しくお願い致します。

1993年に念願だったプロトライアスリートになる事ができ、NTTトライアスロンサーキット、シリーズチャンピオンにもなる事が出来、順調にキャリアを積んでいきましたが、1998年プロになって初めて大スランプに落ち入りました、出るレース出るレース成績が出なくなり、途中からレース中に胸が苦しくて走れなくなり歩かないといけないくらいになるレースが2レース位続いて病院で心電図等検査もしましたが、どこも異常が無くお医者さんから心臓はメンタルに影響するからねと言われました。(成績を出さないといけない、出ないから余計に焦るという悪循環にメンタルが影響したんだなと思っています)
それで、今シーズンはレースを辞めよう、来シーズンにかけようとレースに出るのを辞め、来シーズンに向けたトレーニングに切り替えました。

来シーズンに向けて、凄く燃えてトレーニングをしていましたが、1998年12月24日彼女がいなかったので男友達と夜2人でジムで寂しくトレーニングにいき、その後ご飯を食べに行く途中で交通事故を見て、事故は気を付けないといけないね、事故しちゃいかんね、練習出来なくなっちゃうからね話していました。

次の日の12月25日の朝プールに行く途中、片側1車線の左カーブを走行中に対向車線で遅い車を抜いてきた車が僕の走行している対向車線へ逆走する形で突如現れ一瞬で正面衝突!!!!
気がつくと手の甲がパックリ空き(見た瞬間1週間で治るかな、練習出来るかなと思ったのを覚えています)昨日事故したらいかんと話していたじゃんか〜
エンジンから白煙が出ていたので燃えたらヤバイと運転席のドアを開けようとしたら開かず、ヤバイヤバイとかなり焦りましたが、左側のドアが開いたので脱出、相手側の運転手さんは車に乗ったままだったので、大丈夫ですかと声をかけに行ったら、苦しそうで動かさない方がいいと思い、救急車を待ちました。

病院に行き検査をしたら、手の筋が3本切れていていました。
手術になりました、手術の時、部分麻酔だったのでお医者さん達の話し声が凄く良く聞こえてきて、昨日クリスマスどうしてたとか話をしていました、僕は男2人で寂しくジムで練習し復活をかけて頑張っていたのにと思うと悔しくて悔しくて涙が出できて、看護師さんが涙を拭いてくれました。

手術が終わり入院かと思いましたが、丁度岡崎民病院が新しい市民病院ができて、入院患者さんを移している時期で、僕みたいな手の軽い方は入院させてくれませんでした。

ここからが地獄の2週間の始まりです!
家に帰って来て、痛み熱はどんどん増していきました、熱が40度まで上がり座薬を打っても、効かなく、のたうち回る痛さ、夜中ブッチブッチと凄い音がしました。
それを言ってもギブスを開いてくれませんでした(結局ブッチと音がしたのはつないだ筋が腐って切れてしまいました)

大阪から師匠の城本さんが家までお見舞いに来てくれ、お前に神様は乗り越えられない試練は与えない、乗り越えられると思うから、この試練を与えたんだぞと励ましてくれました。
本当に勇気付けられました。

お見舞いに後輩の鈴木テル君も来てくれ、ご飯も食べに連れて行ってくれました(その時すでに化膿がひどく物凄くクサイ臭いがしていましたが、車の密室の中、我慢していたと後から聞きました、良く我慢したぞ!)

2週間後抜糸をする為ギブスをとる時、重傷と判断してくれ、直ぐに緊急手術と言われました。
あまりの痛さに少し触られるだけで激痛だったので大きな声でわめいていたので部分麻酔が出来ず、全身麻酔の手術になりました。

つないだ筋は腐って2本切れ骨まで腐って削り、後1週間遅ければ手を切断だったそうです(40度まで熱が上がり、そりゃ〜今まであじわった事の無い痛みのはずです、もうあの痛みは勘弁です)

入院生活の始まりです!
菌を退治する点滴を毎日し、手の消毒をするのですが、最初の方は激痛でわめきちらしていました。
点滴が効き炎症がおさまってくると消毒の時もだんだん痛くならなくなってきました。
手の痛みがとれてきて動かそうとしたら、動かない、これはバイクに乗れるか、トライアスロン出来るか!トライアスロンが出来なくなると世間知らずの僕はヤバイぞと凄く心配になってきました。
入院しながらリハビリ開始です、理学療法士さんとまずは指を動かせる様になる事を目標にトライアスロン復活したい思いで頑張りました。
指は少しずつ動く様になってきましたが、手首がなかなか動かない、1ヶ月半経っても手首だけは少ししか動かないので、名古屋大学病院に手専門の有名な先生がいると、転院して見てもらいましたが、僕みたいな症例は少なく恰好の実験台だったと思います。

3度目の手術です!
今回は動く様になる手術です!
今回は部分麻酔でまた話して声が聞こえます
なんとかトライアスロンが出来る位に動く様になって欲しいと祈っていました。
手術中、先生がゆちゃくがすごいなといい、ゆちゃくをとっていました、ゆちゃくをとり手首を動かし、動いた動いたと言われ凄く嬉しくなりました。
手術が終わり数日たって、動くのを期待して動かそうとしましたが、手首は少し動く様になった位でした、また凄いショックでした!
当時の医学ではしっかりした事が分からないと言われました、ただ凄い精神的なショックや極度の痛みや後一つは忘れましたが、あるとこの様に動かなくなってしまう症例はあったそうです(僕は2つバッチリはまっています)
次はブロック注射と言う治療をしました、麻酔を打つ治療でしたが、効きませんでした!
ここで入院生活の終わりです!

家に帰りバイクに乗れる手か確かめようとローラー台にバイクをセットし緊張しながらバイクにまたがりハンドルに手を置きました、ブルホンバーなら何とか乗れる(ドロップハンドルはダメでした)DHバーも持てる、トライアスロンが出来ると思ったら涙が出てきました。

ここから、このままでは終わらない、絶対に復活してみせる、反骨精神がメラメラと燃えてきました。
目標を1年後の宮古島と設定しました。
筋肉は落ち体重は56キロまで落ち、一から体を作りなおそうと思い、ウォーキングと筋トレから始めました。
大事な事は一気に上げない、少しづつ時間も長くし強度も少しづつ高くしていきました。
プールも行きました、手首が動かないと水のキャッチが上手くいかないのを、試行錯誤し当たり前ですが、ハイエルボーをしっかり立てて水をつかむ感じをつかんでいきました。

またトライアスロンが出来る喜び、目標に向かって練習出来る喜びで練習が楽しくてしょうがなかったです。

夏のトレーニングも順調に進み体力、筋力もつき
タイム等も上がっていきました。

目標の宮古島までレースが1年半空く事になるので宮古島までにレース感覚をつかみたかったので11月12月色々探しましたが海外しかなくフィリピンのセブ島のレースがあり日本からツアーもあったのでエントリーしました。
優勝はしましたが、全然足らない所が色々見えてきました。
宮古島前にレースに出て本当に良かったと思います。
体力はついてきたが宮古島で上位で戦うスピードがなくこのままでは宮古島は全然ダメだと分かりました。
強度の高い練習とスピードが足らないと分かりました。
後4ヶ月で宮古島、絶対に復活するにはもっと強度の高いスピード練習が必要と思い、苦しい練習もどんどん入れていきました。

2000年1月に市民駅伝に出場した時、3.6キロをキロ2分56秒ペースで走れので、ベースがしっかり出来ていたので、スピード練習を入れたら一気に上がってきました。

2月に入り、城本師匠と宮塚さんとテルと沖縄合宿に入りました(沖縄合宿は毎年恒例で2月に2週間行われます、1999年は事故で行けなかったので2年ぶりになります、この合宿は行く前はワクワクし早く行きたいな〜と思いますが、3日で帰りたくなる、素晴らしい合宿です)ここで師匠に復活したなと言われ自信がつきました。

宮古島前に筋肉もつき、足からは血管が浮き出し走れる体になりました。
レースがしたいと思いました。

目標にしていた宮古島がきました。
ワクワクしていました。

レース日は雨、スイムも順調にこなしバイクに移り、リラックスし腹式呼吸をし集中し前の選手をどんどんパスしていきます、カーブでは慎重に走りました(沖縄のアスファルトは貝殻が入っているので、雨の日はかなり滑る為)レース中、今レースしてるんだな〜トライアスロン出来るんだな〜と凄く嬉しい気持ちになった事を覚えています。
バイクも順調にゴールしました。
ランは最初は僕は体が動かないので、スロースタターです、エンジンがかかるまでペースを上げず我慢します、エンジンがかかってきたら設定ペースが楽に、リズムに乗れ手をしっかり使い走りました。
バイクもランも何度か苦しい場面がありましたが、あの地獄の2週間に比べたらと思い走りました。
ランも2時間56分で走り総合7位(日本人3位)になり復活出来ました。

事故前より強くなったと感じたのは9月に行われたロングの日本選手権です!
何時もバイクゴールまで一緒、ランで離されてしまう、当時アジアナンバーワン(アイアンマンジャパン優勝、アイアンマンコリア優勝)言われていた田村さんに勝てた事が嬉しかったです。

日本選手権の時もバイクゴールまで一緒にゴール、ランに入ってまたしても最初体が動かず、一気に話されてしまいました。
エンジンがかかり、折り返して少し差が縮まったと思い、もしかしてと思い無理してプッシュしました、だんだん田村さんの体が大きくなってきました、キロ3分30位では走っていたと思います。
ラスト1キロ、田村さんは50メートルまで迫ってきました、ここまで来てこのまま2位でいいのか、優勝と2位では全然違うぞ、今後ここで頑張らなかったら後々の人生後悔するぞと思い、凄く苦しかったですが、ギアを切り替えて一気にラストスパートをかけました、田村さんをラスト600メートルで一気に抜いた時田村さんがあっと声をだしたのを凄く覚えています。
1キロ前からスパートしたので乳酸がたまりラストの方は足が動かず、抜かれるんじゃないかと思い、相当苦しかったです、足動いてくれ最後までもってくれと思い、ゴールテープをきる事ができました。(ラスト1キロは3分10秒をきっていました)
田村さんに勝って優勝出来た事が僕にとっては最高に嬉しかったです。(田村さんはこの年のハワイアイアンマンで総合14位になりました)

1998年の大スランプから交通事故にあい、手が化膿して入院、あの苦しい出来事は僕にとっては無くてはならない大事な事だったと今でも本気で思っています。
慢性疲労が抜けきれた事、メンタル的に絶対に復活する精神が出来た事、僕にはこの位無いと更に以前より強くなれなかったと思っています。

今回、入院になってしまいレッスンが出れなく大変申し訳ありませんでした。
今は腫れが治って来週の火曜日に退院出来ると思います。
退院しましたら、パワーアップしレッスンが出来る様に、入院の時に出来る事を頑張り次からのレッスン、スクールに繋げて行きたいと思います。

今後共トライアスロンスクール、STを宜しくお願い致します。

柴田卓也